織田信長の妻は何人いたのでしょうか。信長には正室の濃姫をはじめ、9人以上の側室がいたと言われています。
信長の妻の正確な数は不明ですが、ここでは信長の妻たちについて簡単にご紹介します。
信長が最も寵愛したのは生駒吉乃でした。また、濃姫は政略結婚で子供もいませんでした。
側室のうち代表的な5人を紹介します。
さらに、信長の子供は20人以上おり、妻たちの出自は様々でした。信長の妻にはそれぞれに特徴があり、政略的な意味合いも大きかったのです。信長の妻は何人いたのか、その謎に迫っていきましょう。
この記事のポイント
・信長の正室と側室の人数
・信長が最も寵愛した妻
・妻たちの出自と特徴
・妻たちとのエピソード
織田信長の妻は何人いたのか
織田信長は戦国時代を代表する大名の一人です。信長には正室の濃姫をはじめ、9人以上の側室がいたと言われています。信長の妻の正確な数は不明ですが、ここでは信長の妻たちについて簡単にご紹介します。
織田信長が最も愛した女性
信長が最も寵愛したとされるのが、前述の通り生駒吉乃です。吉乃は信長より10歳程年上で、信長が20歳前後の時に出会ったと考えられています。吉乃の父は信長の家臣で、信長は政略結婚ではなく吉乃の人柄に魅了されたのだと言われています。
信長はしばしば吉乃の屋敷を訪れ、吉乃の看病を務めるなど深い愛情を示しました。吉乃は信長の嫡男信忠らを産み、正室に準ずる扱いを受けていたとされています。しかし病弱だった吉乃は30代半ばでこの世を去り、信長は深く哀しんだといいます。
織田信長の最初の正室
信長が最初に迎えた正室は、前述の通り美濃国の大名・斎藤道三の娘である濃姫(のうひめ、帰蝶)でした。信長が14、5歳の頃、tail張国の支配を固めつつあった信長にとって、美濃の斎藤氏は強力なライバルでした。
そこで両家は敵対関係を解消するため、政略結婚が行われ、信長は濃姫を正室に迎え入れました。ところが二人の間には子供が生まれず、濃姫に関する記録もほとんど残っていません。信長の正室でありながら謎の多い女性だったと言えます。
信長の側室の数
信長の側室の正確な数は不明ですが、記録に残る限りでも9人以上が側室だったことがわかっています。代表的な側室として、先ほど紹介した生駒吉乃のほか、三男信孝の母の坂氏、四男秀勝の母の養観院などが知られています。
側室の名前が判明している女性だけでも9人おり、ほかに生母不明の子供も多数いたことから、実際には10人を超える側室がいた可能性が高いのです。政略結婚や養子縁組のため、多くの妻を持つのは武家では一般的でした。
織田信長妻の代表的な5人の名前
信長の妻で代表的な5人を挙げると、次の通りです。
・濃姫(のうひめ):信長の最初の正室。美濃国の大名・斎藤道三の娘
・生駒吉乃(きつの):信長の寵愛が深かった側室。長男信忠らを産む
・坂氏:三男信孝の生母。出自不明だが伊勢の豪族の娘とされる
・養観院:四男秀勝の生母。出自不明
・お鍋の方:七男信高らの母。近江国の土豪・高畑源十郎の娘
この5人が信長の妻の中でも代表的な女性といえます。特に生駒吉乃は信長に深く愛され、正室に準じる扱いを受けていたといわれています。
織田信長の子供数
信長の子供の数は、男子が11人、女子が11人の合計22人とも、男子9人、女子8人の合計17人とも言われており、はっきりしません。しかし少なくとも11男11女、計20人以上は信長の子であると考えられています。
三男信孝、四男秀勝、七男信高、八男信吉など、信長の多くの息子達が側室の子であることがわかっています。一方、長男信忠、次男信雄、長女徳姫の3人は寵愛の側室・生駒吉乃が産んでいます。信長には正室・濃姫の子はおらず、実質的に生駒吉乃が嫡男信忠を産んだ正室的存在だったと考えられます。
信長が最初に結婚した年齢
織田信長が最初に結婚したのは、前述の通り正室の濃姫です。信長と濃姫の結婚年代は不明瞭ですが、信長が14、5歳頃に政略結婚で濃姫を迎えたと考えられています。
信長と正室の間の子供
信長の最初の正室である濃姫との間に子供がいたかどうかは不明です。史料上には二人の間に子供がいた形跡がなく、濃姫に関する記録自体が乏しいことから、信長と濃姫の間に子供がいなかったと考えられています。
むしろ信長の多くの子供達は、寵愛深かった側室の生駒吉乃や、その他の側室の間に生まれています。正室の濃姫との間に子供がいなかったため、側室の子である嫡男信忠が後継者として扱われました。濃姫は信長にとって政略的な意味合いが強かった妻で、実質的に吉乃が信長の「妻」としての役割を果たしていたと言えます。
織田信長の妻は何人いたか – 妻に関する豆知識
ここからは、織田信長の妻たちに関する豆知識について触れていきます。
信長の側室たちの出自と特徴
信長の側室の出自を見ると、尾張や美濃などの国人や戦国大名の娘、信長家臣の娘など、様々な背景を持つ女性がいます。
例えば生駒吉乃は信長の家臣の娘で、お鍋の方は近江の国人の娘です。一方、正室の濃姫は美濃の大名・斎藤道三の娘でした。信長にとって妻は同盟関係強化の政略的な意味合いが強く、出自も多岐に渡っていたといえます。
年齢差も大きく、信長より年上の吉乃から、幼い頃に嫁いだ正室・濃姫までさまざまでした。共通点は信長の子を数多く産んだことでしょう。
信長と側室たちのエピソード
信長と妻たちの関係で有名なエピソードを二つ紹介します。
一つは寵愛の吉乃が病床についた時、信長が自ら吉乃を抱きかかえて小牧山城に移した話。信長の吉乃への深い愛情が伺えます。
もう一つは、信長の命により正室・濃姫の実家が滅亡した Honomitijiの変です。濃姫の父・斎藤道三が信長の命に反し、子の義龍に殺害されたためでした。政略結婚だった二人の関係の薄さがうかがえます。
信長の子供たちのその後
信長の多くの子供たちは、本能寺の変後も様々な運命をたどりました。
長男の信忠は本能寺で討ち死にしましたが、嫡孫・三法師が後を継ぎました。次男信雄は豊臣政権下で大名として遇されました。
一方、三男信孝は秀吉と対立して討たれます。四男秀勝も若くして没しました。信長の血を引く子孫は後世にも残ったのです。
信長の妻たちの法号や墓所
信長の妻たちの墓所や法号も記録に残っています。正室の濃姫は総見院に埋葬されたともいわれ、法号は「養華院殿要津妙玄大姉」です。
側室の吉乃は久昌寺に葬られ、法号は「久菴桂昌大禅定尼」。三の丸殿は崇福寺に埋葬されました。墓碑に妻たちの名が刻まれていることが多いです。
信長の政略結婚の意味
織田信長の結婚の多くは、政略結婚の色合いが強かったと言えます。当時の戦国大名にとって、妻は同盟関係を強化する政治的な意味を持っていました。
信長も尾張国統一を進める中で、美濃の斎藤氏との同盟の意味合いが大きく、濃姫を正室に迎えました。また信長家臣の娘を側室に迎えることで、家臣団との結束を固めたとも考えられます。
子作りだけでなく、妻は政治的に重要な意味を持っており、信長の結婚もその側面が強かったのです。妻を通じた同盟関係の構築が、戦国大名にとって欠かせない要素だったといえるでしょう。
信長の妻たちの年齢差と寿命
最後に、信長の妻たちの年齢差と寿命について触れておきます。
信長と最も年齢差があったのは、寵愛の吉乃で、信長より10歳以上年上だったと考えられています。一方、正室の濃姫は信長と同年代か1、2歳年下だったでしょう。
妻たちの寿命は、吉乃が30代半ば、濃姫が70代と推定されるなどまちまちです。当時の平均寿命から考えると、濃姫は長生きの部類に入ります。
一方、吉乃は若くしてこの世を去っています。歴史上の人物の正確な生年月日や没年月日は不明な場合が多いため、年齢差や寿命の実態は不明瞭な部分も大きいのが現状です。
以上、織田信長の妻に関する豆知識を紹介してきました。信長には正室の濃姫をはじめ9人以上の側室がおり、20人以上の子女に恵まれました。
妻たちの出自や特徴、エピソード、子供たちの運命はそれぞれ異なりますが、信長にとって妻たちは政略的な意味合いと愛情の両面があったことがうかがえます。
戦国時代を代表する武将である信長の公私における妻たちの存在と影響力の大きさが見て取れるのではないでしょうか。ここで紹介した信長の妻たちに関する知識が、信長という人物像をより立体的に理解する一助となれば幸いです。
織田信長の妻は何人いたのか?総括
・正室は濃姫、9人以上の側室がいた
・最も寵愛したのは生駒吉乃
・濃姫は政略結婚、子供なし
・側室のうち代表的な5人を紹介
・信長の子供は20人以上
・14、5歳で濃姫と最初に結婚
・側室の子が多数を占める
・妻の出自は様々、政略的意味が大きい
・吉乃とのエピソードがある
・信長の子孫は後世に残る
・妻の墓所、法号がわかっている
・結婚は同盟関係強化のため政略的
・妻の年齢差と寿命はそれぞれ異なる
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