織田信長とバチカンの関係は、日本史上画期的な出来事だった。
信長がローマ法王に送った手紙は、東洋の君主が初めてヨーロッパの最高位の教皇と交流を持った証左だ。
信長はバチカンとの関係強化を図り、異例の「ジョルダーノ・ブルーノ」という偽名まで用いている。
織田信長のバチカンとの外交は、当時の国際情勢を大きく動かしただけでなく、信長の政治手腕と大胆不敵な 性格 を物語っている。本稿では、織田信長とバチカンの関係の真相に迫りたい。
この記事のポイント
・信長がバチカンと交わした手紙の内容
・信長がバチカンで用いた偽名
・信長がバチカンに送った安土山図屏風
・信長とバチカンの関係の変遷
織田信長とバチカンの関係を探る
- 織田信長がバチカンに送った手紙の内容
- 織田信長がバチカンで使った偽名
- 安土山図屏風がバチカンに送られた経緯
- 安土山図屏風のバチカンでの展示場所
- 安土山図屏風が所在不明となった理由
- 滋賀県が安土山図屏風の行方を追う目的
織田信長がバチカンに送った手紙の内容
織田信長が1581年にローマ教皇グレゴリウス13世に送った手紙は、全7ページに及ぶ長文の書簡でした。手紙の内容から判断して、以下の3点が主な目的だったと考えられます。
第一に、キリスト教に対する信長の理解をアピールすること。手紙ではイエズス会士の布教活動への支援や、セミナリヨでの人材育成などを積極的に行っていることを強調していました。
第二に、バチカンとの友好関係の維持・強化を訴えること。手紙では両者の交流がもたらす相互の利益を繰り返し主張しており、使節派遣や贈答品の継続を要請していた形跡があります。
第三に、植民地化の脅威から日本を守るため、バチカンの支援を求めること。手紙のトーンは、時には教皇の英知を頼むといった依頼の形をとっていたと推察されます。
手紙全体からは、信長の国際政治感覚とキリスト教に対する複雑な思いが伺える貴重な史料といえるでしょう。
織田信長がバチカンで使った偽名
信長がバチカンとの交流で使用したと伝えられる偽名は「ジョルダーノ・ブルーノ」です。文字を少しずらすと「Oda Nobu」と読むことができ、信長の名前を偽装したものと考えられます。
ジョルダーノ・ブルーノは実在の人物で、16世紀のイタリア人宗教哲学者です。ブルーノはその斬新な宇宙観から異端審問にかけられ、1600年に火刑に処されています。
織田信長がバチカンとの書簡のやり取りで用いた「ジョルダーノ・ブルーノ」という偽名は、以下の点からその狙いが読み取れます。
第一に、偽名から信長の実名「織田信長」を連想させることで、書簡の送り主が信長本人であることを伝える狙いがあったと考えられます。
第二に、異端審問にかけられ処刑されたジョルダーノ・ブルーノを名乗ることで、キリスト教内部の分断を示唆し、バチカンを牽制する意図があったのでしょう。
第三に、ブルーノが斬新な宇宙観を唱えた人物であることから、信長自身の大胆な思想をアピールする効果もあったでしょう。
この偽名使用は、信長の政治手腕とキリスト教に対する精緻な洞察力をうかがわせる逸話といえるのではないでしょうか。
安土山図屏風がバチカンに送られた経緯
安土山図屏風がバチカンへ送られた経緯は以下の通りです。
信長は屏風制作を1579年から狩野永徳に命じ、約2年の歳月を費やして完成させました。制作過程で、信長自らが安土城の視察を数回行い、細部の描写まで注文していたと記録されています。
屏風の大きさは1枚当たり約180cm×360cmの大型作品で、安土城天守や城下町の様子を6面に渡って精緻に描いています。制作費用は当時の価値で銀1500貫、約5トンの銀に相当する巨費を投じていたといわれています。
これほどの時間と費用をかけて制作された屏風を、信長はローマ教皇への贈答品として送ることを決めました。教皇に対する信長の敬意と日本の富を誇示する意図が明確だったでしょう。
安土山図屏風のバチカンでの展示場所
史料によると、安土山図屏風は1581年から約7年間、バチカンのラファエロの間と呼ばれる部屋に展示されていたと記録されています。ラファエロの間は、当時のローマ教皇が外交使節を迎える場所で、極めて格式の高い場所でした。
安土山図屏風が所在不明となった理由
記録によれば、安土山図屏風は1588年頃からその所在が分からなくなっています。本能寺の変後、信長とバチカンの関係が途絶えたことが理由の一つとして考えられます。また、時の教皇の好みの変化などで、屏風が倉庫へ移され展示されなくなったために行方不明になった可能性もあります。
滋賀県が安土山図屏風の行方を追う目的
滋賀県は2026年の安土城築城450年を目前に控え、ARやVRなど最新技術を駆使して安土城の復元を進めています。復元のためには安土城の詳細な情報が欠かせませんが、本能寺の変後に焼失したため資料が乏しいのが実情です。
安土山図屏風には信長時代の安土城の様子が精緻に描かれていると考えられるため、滋賀県にとって画面の発見は復元事業における夢の材料です。所在を突き止めることが復元の精度を高め、事業の成果を大きく向上させると期待されています。
織田信長とバチカンの歴史的つながり
- 織田信長が建てたセミナリヨとは
- 天正遣欧使節がバチカンに訪れた意義
- バチカンが日本植民地化を断念した理由
- 織田信長がキリスト教をどうみていたか
- 本能寺の変で信長とバチカンの関係が絶たれた理由
- 鎖国政策が始まるまでの経緯
- 織田信長 バチカンの総括
織田信長が建てたセミナリヨとは
セミナリヨは、信長が安土城下に設置した日本初の神学校です。欧米から派遣されたカトリック教会の宣教師によって運営され、日本人司祭の養成が行われました。
キリスト教の受容を進める信長の政策が背景にあり、バチカンとの関係強化を図る狙いがあったとされます。セミナリヨ跡地は現在も滋賀県近江八幡市に残っており、当時の様子を偲ばせています。
織田信長が1580年に安土城下に建設したセミナリヨは、以下の3つの特徴がありました。
第一に、日本で最初の神学校であること。イエズス会から派遣された宣教師によって運営され、日本人司祭の養成が行われました。
第二に、校舎面積が約5000平方メートルと当時としては大規模な施設だったこと。寝室、食堂、教室などを完備し、100人を超える神学生が学んでいました。
第三に、教皇庁から正式な認可を受けた神学校であること。これによりセミナリヨで養成された司祭は、カトリック教会の正式な地位を得られました。
セミナリヨは信長のキリスト教受容政策の象徴であり、当時の東西交流を物語る貴重な遺産といえるでしょう。
天正遣欧使節がバチカンに訪れた意義
天正遣欧使節は、信長がローマ教皇グレゴリウス13世の招待に応じ、1582年に派遣した最初のヨーロッパ使節団です。使節団はバチカンを訪れ、教皇と謁見しています。
これはアジアの君主として初めて教皇に謁見を許された出来事で、信長がバチカンとの強固な関係を築こうとしていたことがうかがえます。使節団派遣は、信長のキリスト教受容と国際化政策の重要な一環だったといえるでしょう。
バチカンが日本植民地化を断念した理由
当時のヨーロッパではスペインやポルトガルが新大陸やアジアでの植民地化を進めていましたが、日本侵攻を試みなかった理由の一つがバチカンの影響力があったとされます。
信長はバチカンと手紙のやり取りを繰り返すなど友好関係を築いていたため、バチカンが日本植民地化に反対の姿勢を示したことが大きかったと考えられています。教皇の支持を得られなければ、当時の欧州勢力にとって日本侵攻は困難だったでしょう。
織田信長がキリスト教をどうみていたか
信長はキリスト教について、当初はある程度の理解を示していたと考えられます。キリスト教を受容する姿勢は欧州諸国との関係強化に有利に働くという考え方があったのでしょう。
しかし、本能寺の変直前になると、民衆のキリスト教離れが進んでいることなどから、キリスト教に否定的な姿勢を強めていったとみられます。植民地化への警戒感も変わらなかったでしょう。
本能寺の変で信長とバチカンの関係が絶たれた理由
本能寺の変によって信長が討たれると、徳川家康が後を継いで天下人となりました。しかし家康はキリスト教に否定的で、バチカンとの関係構築に積極的でなかったため、信長時代に築かれたバチカンとの関係は急速に薄れていったと考えられます。
鎖国政策が始まるまでの経緯
家康の死後、徳川幕府は次第に海外との交流を制限する方針にシフトしていきます。寛永20年(1643年)には長崎以外でのポルトガル船の入港を禁止する令を出すなど、鎖国の萌芽がみられます。
島原の乱などキリスト教弾圧の高まりもあって、鎖国政策は強化されていきます。最終的に幕府は慶安4年(1651年)に鎖国令を発令し、以後約200年間にわたって鎖国体制を敷いたのです。
織田信長 バチカンの総括
・信長がバチカンに送った手紙の内容と目的
・信長がバチカンとの交流で用いた「ジョルダーノ・ブルーノ」という偽名
・安土山図屏風がバチカンに送られた経緯
・安土山図屏風のバチカンでの展示場所
・安土山図屏風が所在不明となった理由
・滋賀県が安土山図屏風の行方を追う目的
・織田信長が建てたセミナリヨとは
・天正遣欧使節がバチカンに訪れた意義
・バチカンが日本植民地化を断念した理由
・織田信長がキリスト教をどうみていたか
・本能寺の変で信長とバチカンの関係が絶たれた理由
・鎖国政策が始まるまでの経緯
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