『すずめの戸締まり』考察において、鈴芽と環の複雑な母娘関係が物語の核心であることは明らかです。本記事では、すずめの戸締まり 考察を深めるべく、ふたりの関係性に隠された真実や伏線、そしてダイジンが象徴する物語に迫ります。すずめの戸締まり 考察を通して、震災で失われた日常と家族の絆について理解を深めていきましょう。
この記事のポイント
・鈴芽と環の複雑な母娘関係の本質
・ダイジンの存在が象徴する鈴芽と環の物語
・震災を通して描かれる日常の尊さと家族の絆
・美しい風景の中に潜む不条理な現実
【すずめの戸締まり】考察:鈴芽と環の関係性に隠された真実
鈴芽と環の複雑な母娘関係
映画『すずめの戸締まり』において、最も注目すべきは主人公の岩戸鈴芽と叔母の環の関係性です。
鈴芽は幼いころに母を亡くし、それ以降は叔母の環とふたりで暮らしてきました。
環は鈴芽の育ての親ではありますが、本当の親ではありません。
一方、環にとっての鈴芽も、家族ではあるものの実の子どもではないのです。
お互いがその部分を意識しており、互いに気を遣って生活しているのが、現在の岩戸家の状況だと言えるでしょう。
「TAMAKI」が表現する環の愛憎入り混じった心情
環の心情を深く理解するためには、本作にインスパイアされて作られたRADWIMPSの曲「TAMAKI」を聴くのが一番です。
この楽曲は「あなたが嫌いだった」という一節から始まります。
いきなり鈴芽に対する憎しみが語られるのですが、同曲の中には「あなたがいなくなったら なんにもなくなった」「あなたこそが私がここに生きてた何よりの証拠だった」という一節もあるのです。
つまり、環にとって鈴芽は、自分から可能性を奪った憎むべき相手であると同時に、生きていくための希望でもあったのです。
子どものいない環にとって、鈴芽と過ごした12年間こそ、彼女が生きてきた証だったのでしょう。
この愛憎が入り混じった複雑な感情が、鈴芽への過保護な態度にも繋がっていると考えられます。
環の過保護な態度の裏に潜む想い
環の鈴芽に対する過保護な態度は、映画の随所で描かれています。
例えば、鈴芽のためにキャラ弁を作ったり、鈴芽の帰りが遅いと心配したりと、まるで本当の母親のような行動が目立ちます。
しかし、これらの行動の裏には、先述したような愛憎入り混じった複雑な感情が潜んでいるのです。
環は鈴芽を大切に思う一方で、鈴芽のために自分の人生を犠牲にしてきたという思いもあるのでしょう。
そのため、過保護な態度で鈴芽を束縛することで、自分の存在意義を見出そうとしているのかもしれません。
鈴芽が感じる罪悪感と遠慮の理由
一方、鈴芽の環に対する心情を的確に表した一文があります。
小説版からの引用ですが、「わざとじゃないけれど、お弁当を持たない日はほんのすこしだけ解放感がある」というものです。
鈴芽は毎日環が作ってくれたキャラ弁を食べていますが、心から喜べていないのです。
そこには「本当の親ではない」という心情ゆえの遠慮があるからです。
また、鈴芽は環に罪悪感を抱いています。
幼い自分が環の人生を邪魔したのではないか、という疑問が、ふたりの間に溝を作っているのです。
絶妙な距離感で成り立つ歪んだ家族関係
セリフで語られるシーンは少ないものの、絶妙なところで”家族”を成り立たせているふたりの距離感は、映画を観ていれば伝わってくるはずです。
表面上は普通の家族のように見えますが、お互いに本音を言えない関係性が、ふたりの間に漂っています。
鈴芽と環の関係性は、一見すると理想的な家族のようですが、実はかなり歪んだものなのです。
この歪みこそが、鈴芽と環の物語の核心部分だと言えるでしょう。
【すずめの戸締まり】ダイジンの役割を考察!
- ダイジンと幼い鈴芽のシンクロ
- 「うちの子になる?」の一言に隠された意味
- ダイジンの無邪気さと残酷さが象徴するもの
- ダイジンを通して描かれる鈴芽と環の物語
- 理不尽に見えるダイジンの行動の理由
- 幼い鈴芽が見た”母と思わしき人物”の正体
- 行方不明になっていた椅子の意味
- 新海誠監督が震災を通して伝えたかったこと
- 写実的な風景美の中に潜む不条理の数々
- すずめの戸締まり考察の総括
ダイジンと幼い鈴芽のシンクロ
本作におけるダイジンの役割とは一体何だったのでしょうか。
ダイジンは鈴芽を導き、ミミズを封じる手助けをしていましたが、彼の役割はそれだけではありません。
本作が「鈴芽と環の物語」だとすると、ダイジンの隠された役割が見えてきます。
実は、ダイジンは幼い鈴芽とシンクロするキャラクターだったのです。
「うちの子になる?」の一言に隠された意味
ダイジンと鈴芽の関係は、鈴芽が発した「うちの子になる?」の一言から始まりました。
この言葉は、環が鈴芽を引き取ることに決めた際の台詞とリンクしています。
その後、ダイジンは鈴芽から草太を奪いますが、幼い鈴芽も環から婚期や自由を奪ってしまったのです。
ダイジンの無邪気さと残酷さが象徴するもの
ダイジンと幼い鈴芽の共通点は、どこまでも無邪気で、そこに悪意がない点です。
一見、悪役にすら見えるダイジンですが、行動原理は”鈴芽に対する好意”だけでした。
ダイジンは、邪魔者である草太を排除することで、鈴芽とふたりきりになろうとしたのです。
幼い鈴芽も無意識に、そして無邪気に、環から大切なものを奪っていたのかもしれません。
しかし、忘れてはならないのは、「うちの子になる?」と最初に言ったのは、環であり、鈴芽だったということです。
ダイジンを通して描かれる鈴芽と環の物語
このように、鈴芽は物語の中で、環の半生を追体験しているのです。
表面上は草太と鈴芽のロードムービーですが、その裏では、ずっと環と鈴芽の関係性が描かれていました。
ダイジンの存在は、まさにその関係性を象徴するものだったのです。
ダイジンを通して、鈴芽は環の心情を理解することができたのでしょう。
理不尽に見えるダイジンの行動の理由
ダイジンの行動は、一見すると理不尽で残酷なものに見えます。
しかし、それには理由があったのです。
ダイジンは鈴芽に対する好意から、邪魔者である草太を排除しようとしました。
それは、環が鈴芽を引き取ったときの心情と重なります。
環も、鈴芽を引き取ることで、自分の人生を犠牲にしたのです。
しかし、それは環の選択であり、鈴芽に責任はありません。
同じように、ダイジンの行動も、鈴芽の責任ではないのです。
ダイジンは、鈴芽との関係を深めるために、自分なりの方法を選んだだけなのです。
幼い鈴芽が見た”母と思わしき人物”の正体
物語の冒頭、鈴芽は母と思わしき人物の幻影を見ています。
その人物は、鈴芽に手を差し伸べていました。
しかし、その正体は環だったのです。
環は、幼い鈴芽に手を差し伸べ、引き取ることを決めました。
この幻影は、鈴芽と環の関係性を象徴するものだと言えるでしょう。
行方不明になっていた椅子の意味
物語の中盤、鈴芽の部屋から椅子が消えるシーンがあります。
この椅子は、鈴芽の母が座っていたものでした。
椅子が消えたことで、鈴芽は母の存在を意識するようになります。
そして、ラストシーンで椅子が再び現れます。
この椅子は、鈴芽と母の絆を象徴しているのです。
椅子が消えたり現れたりすることで、鈴芽の心情の変化が表現されています。
新海誠監督が震災を通して伝えたかったこと
本作は、東日本大震災を題材にした作品です。
しかし、新海誠監督が伝えたかったのは、単なる震災の悲惨さではありません。
むしろ、震災によって失われた日常の尊さを描くことが、本作の主題だったのです。
鈴芽と環の日常は、震災によって失われてしまいました。
しかし、ふたりは震災を乗り越え、新しい日常を築いていきます。
これは、震災を経験した多くの人々の姿でもあるでしょう。
写実的な風景美の中に潜む不条理の数々
本作の背景は、驚くほど緻密に描かれています。
まるで写真のような風景美は、見る者を圧倒するでしょう。
しかし、その美しい風景の中に、様々な不条理が潜んでいるのです。
例えば、津波によって破壊された建物や、行方不明者を探す張り紙など、リアルな描写が随所に見られます。
これらの描写は、美しい風景とのコントラストを生み出し、震災の悲惨さを浮き彫りにしています。
すずめの戸締まり考察の総括
・鈴芽と環の関係性が物語の核心であり、複雑な母娘関係が描かれている
・環の鈴芽への愛憎入り混じった心情が、過保護な態度に繋がっている
・鈴芽は環に対して罪悪感と遠慮を抱いており、絶妙な距離感で家族関係が成り立っている
・ダイジンは幼い鈴芽とシンクロするキャラクターであり、鈴芽と環の関係性を象徴している
・ダイジンの無邪気さと残酷さは、幼い鈴芽が無意識に環から大切なものを奪ったことを表している
・ダイジンを通して、鈴芽は環の心情を理解することができた
・理不尽に見えるダイジンの行動には、環が鈴芽を引き取ったときの心情と重なる理由がある
・物語冒頭で鈴芽が見た母と思わしき人物の正体は環であり、ふたりの関係性を象徴している
・行方不明になっていた椅子は、鈴芽と母の絆を象徴するモチーフである
・新海誠監督は震災によって失われた日常の尊さを描くことを主題としている
・写実的な風景美の中に潜む不条理な描写が、震災の悲惨さを浮き彫りにしている
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