織田信長は何歳でこの世を去ったのか。歴史上最大の謎の一つである織田信長の最期は、今なお多くの人々の関心を集めている。
信長が討たれたのは天正10年(1582年)。本能寺の変と呼ばれる明智光秀の謀反により、織田信長は本能寺で自害に追い込まれた。享年49歳だった。
なぜ信長はこの若い49歳で命を落としたのか。信長の最期と、本能寺での自害にいたる経緯には不明な点が多い。信長の最期の言葉や、行方不明となった遺体の謎も今なお解明されていない。
そこで本記事では、史料に基づきながら、織田信長が何歳でどのように死を迎えたのかを解説していく。戦国時代の総大将の最期に迫り、信長死去の意味を考察することで、当時の時代背景にも迫っていきたい。
この記事のポイント
- 信長が何歳で死んだか
- 信長が本能寺で自害した経緯
- 信長の最期の言葉は不明
- 信長の死がもたらした影響
織田信長は何歳で死んだのか?
信長の生涯と業績
織田信長は、天文3年5月12日(1534年6月23日)に尾張国愛知郡勝幡城で誕生しました。父は尾張の戦国大名・織田信秀、母は土田御前です。
信長は家督相続後、桶狭間の戦いで今川義元を破るなどして勢力を拡大していきます。永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて上洛。その後、信長は義昭を追放して、織田政権を樹立しました。
信長の業績としては、三好三人衆ら反信長勢力を打ち破り、畿内を平定したことが挙げられます。また、石山合戦で本願寺を降し、天下統一の基礎を築き上げた点も重要です。甲州征伐では武田氏を滅ぼし、東国諸大名の服属を実現しました。
信長の政策面での功績としては、室町幕府の制度を取り入れながらも独自の統治機構を築いたことがあげられます。また、道路整備などのインフラ投資、撰銭令の発布など経済政策でも手腕を発揮しました。
本能寺の変で討たれた信長
信長が自害に追い込まれた本能寺の変は、天正10年6月2日(1582年6月21日)未明に発生しました。
当時、信長は西国方面への遠征を控えており、その準備のために本能寺に滞在していました。 しかし、明智光秀が家臣団を引き連れて本能寺を襲撃。寡兵の信長は奮戦するも圧倒的な兵力差に敗れました。
信長は最期に「女共(じょうども)は苦しからず、急ぎ退散せよ」と言い残し、自ら火を放って自害しました。享年49歳でした。
本能寺の変は信長にとって想定外の出来事でした。光秀の謀反は信長に衝撃を与え、戦国時代の情勢を一変させる結果となりました。
徳川家康と豊臣秀吉の享年
信長に続く天下人として知られる徳川家康と豊臣秀吉の享年は以下の通りです。
徳川家康は天文11年(1543年)に生まれ、元和2年(1616年)に74歳で死去しました。江戸幕府を開設して江戸時代の基礎を築き上げた人物です。
一方、豊臣秀吉は天文6年(1537年)生まれで、慶長3年(1598年)に62歳で亡くなりました。秀吉は信長の家臣出身であり、信長亡き後にその遺業を継ぎ天下統一を成し遂げました。
信長よりも二人とも長生きをしており、信長の早世が戦国時代の激動を物語っていると言えます。
明智光秀の謀反で信長は自害
本能寺の変で信長を自害に追い込んだ明智光秀は、信長の家臣でした。
光秀は信長に重用され、丹波を任されていました。 しかしながら、信長の四国征伐方針に反発。自らの立場が危うくなることを恐れて謀反に及んだと考えられています。
光秀は信長の本能寺滞在を悟ると、家臣団を率いてこれを襲撃。寡兵の信長は敗れて自害しました。光秀の裏切りは信長にとって完全な想定外でした。
その後、光秀は反信長勢力と手を結び織田政権の打倒を図りますが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れて自害に追い込まれます。光秀の謀反と死は、信長に続く激動の時代の幕開けとなったのです。
信長の死から見える当時の情勢
信長の死は、本能寺の変だけでなく、その後の情勢の混乱ぶりをも物語っています。
まず、信長の死後、前述の通り明智光秀は反信長勢力と手を結んで織田政権の打倒を図ります。 しかし、これに対して羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が信長の遺志を継ぎ、光秀討伐に成功しました。
その一方で、信長亡き後の政権で台頭した秀吉と徳川家康の確執が次第に深まっていきます。両者の対立は関ヶ原の戦いで決着がつき、徳川氏の天下人としての地位が確立しました。
このように、信長の死去によって織田政権は崩壊。明智光秀の乱、秀吉と家康の対立といった激動の時代が幕を開けたのです。信長の早世は、戦国から安土桃山時代への移行期の混乱を象徴しているといえます。
織田信長は何歳で死んだ?なぜ若くして命を落としたのか
信長の死因は家臣の裏切り
織田信長が自害に追い込まれた直接の原因は、明智光秀による家臣の裏切りでした。
光秀は信長の重用を受けていた家臣であり、信頼も厚かった。しかしながら、四国征伐問題などから信長に対する反発が高まり、ついに謀反に及んだのです。
本能寺の変当夜、光秀は家臣団を引き連れて凶行に及びました。寡兵の信長にとって、これは想定外の出来事でした。圧倒的な兵力差の前に信長は敗れ、自害を選んだのです。
信長にとって、光秀の裏切りは衝撃的な出来事だったことでしょう。長年の家臣の突如の背信は、信長の命取りとなってしまいました。
信長の遺体は発見されず不明
信長が自害した後、その遺体は発見されていません。本能寺の変で織田信長の遺体がどうなったのかは、謎に包まれたままです。
当時、本能寺にいた信長側近の森蘭丸も討死しており、信長の最期を看取った者は不明です。 遺体を隠匿する工作が行われた可能性も考えられますが、明智光秀も信長の死を確認できなかったようです。
本能寺自体が炎上したこともあり、遺体の行方はわかっていません。DNA鑑定などもできないため、信長の死に確証を持って結論づけることは難しいのが現状です。信長の最期は謎に包まれたまま今日に至るのです。
信長の最期の言葉は何だったのか
本能寺の変で討たれた信長の最期の言葉については、史料によって食い違いがあります。
『信長公記』では、信長は最期に「此度は如何なる者の企みぞ」と問い、裏切り者が光秀であることを知ると「是非に及ばず」と言ったといいます。
一方、『三河物語』では、信長は「信忠の裏切りか」と疑ったことが記されています。実の子への疑念を抱いたのは、信長の家臣不信の表れとも取れます。
いずれにせよ、裏切られた信長の交錯する思いが最期の言葉に込められていたのではないでしょうか。信長の真意を推し量ることは困難ですが、激動の時代のはけ口に立った人間の真摯な思いが伝わってきます。
信長の死後、家臣はどうなったのか
信長の死後、その家臣たちはさまざまな運命を辿ります。
嫡男の織田信忠は、光秀への対抗を試みるも討ち死にしました。 信長側近の明智光秀は豊臣秀吉に敗れて自害。
一方、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は信長の仇討ちを果たし、のちに天下人となります。また、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興ら有力家臣は秀吉に仕えました。
ただし、信長の死によって多くの家臣も所領を失うなど混乱し、再出発を求められることになりました。戦国時代の厳しさが伺えるエピソードといえるでしょう。
信長の急逝で戦国時代は混乱した
織田信長の急逝は、戦国時代後期の情勢を一変させる大事件でした。
前述の通り、信長死後、明智光秀の謀反、羽柴秀吉と徳川家康の対立などが起こり、織田政権は瓦解しました。
信長在世時に比較的安定していた戦国大名間の力関係も崩れ去り、再び乱世の様相を呈することになります。特に家康と秀吉の全国規模の争いは、関ヶ原の戦いという大決戦を引き起こしました。
また、諸大名間での合従連衡が活発化し、坂本の陣や清洲同盟の時代に逆戻りした状況となりました。信長の巧みな外交が機能しなくなった結果でもあります。
織田信長は何歳で死んだの総括
- 信長は天正10年(1582年)に49歳で死去した
- 本能寺で明智光秀に襲撃され自害した
- 光秀は信長の家臣だったが謀反を起こした
- 信長の遺体は発見されておらず不明
- 最期の言葉は史料によって異なる
- 信長の急死で戦国時代は再び混乱した
- 光秀はすぐに羽柴秀吉に滅ぼされた
- 秀吉と徳川家康が対立、関ヶ原の戦いにつながった
- 信長の家臣は離散や再出発を余儀なくされた
- 信忠は父の仇討ちを試みたが討ち死にした
- 信長の死は戦国から安土桃山時代への転換点だった
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